1月23日主日礼拝・説教要旨

投稿日:2022年1月22日

会堂での礼拝が休止となりました1月23日の礼拝説教になります。礼拝の一助となれば幸いです。

主日礼拝2022.1.23

「主がすべてを治める」

マルコによる福音書1章21~28節

 今日は、先週の弟子たちの召し出しの出来事の続きの箇所が読まれました。マルコによる福音書が、この弟子たちの召し出し、今日の汚れた霊に取りつかれた男の癒し、またその後に記されている、多くの病人をいやした出来事を一連に並べて記していることには理由があります。それは(難しい言葉ですが)イエスさまには権威があるということです。ここで言われている権威というのは簡単に言えば、実際に物事や人を動かす力、もっときつい言い方をすれば物事や人を実際に支配する力のことと言えるのではないかと思います。

 マルコがそのようにイエスさまのもっておられる権威、人や物事を動かす力をもっている、支配する力をもっておられるということを強調して伝えていることには意味があると思います。

 それはイエスさまこそが、またイエスさまと共におられる神さまこそが、この世界の本当の主であるということです。

 イエスさまがこの世界を本当の意味で支配しておられる主である、ということ。もっと進めて言えばイエスさまこそが“わたしの主”であるということは私たちの信仰の土台だと思います。イエスさまがそのような方だからこそ、私たちはその方に自分の人生をかけて、委ねて生きていくことができるのだと思うんです。

 ヨハネ福音書に記されている出来事ですが、イエスさまが十字架で死なれて、三日目に復活して弟子たちの前に現れた時、12弟子の内のトマス一人だけがその場にいなかったので、復活のイエスさまに会うことができませんでした。トマスという人はよく「疑い深いトマス」と呼ばれているような人物で、疑い深いというか真実を自分の目や心で実感しなければ認めることができない、そういういい意味で言えば、慎重で真摯な人だったと言われています。彼は遅れて弟子たちの集まりにやってきた時に、弟子たちが「わたしたちはイエスさまにあったんだ!イエスさまが生きてたんだ!」と言っているのを聞いて、意地のようなものを張って「わたしはイエスさまの十字架の釘跡に指を突っ込んでみなければ、わき腹にある槍で刺された穴に腕を突っ込んでみなければ、信じない!」って言い張りました。

 その次の週になるとイエスさまが再び訪れてトマスに向かって言いました。「さぁ、あなたの指をこの腕の傷跡に当てなさい。あなたの腕をこのわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その時、トマスの中の世界が完全に変わったんです。彼は「わたしの主、わたしの神よ」と言って、イエスさまこそが世界とトマス自身を支配する本当の主であり、神であることを告白したんです。イエスさまこそが“わたしの主”、イエスさまこそが“わたしの神さま”である、という体験、それがトマスにとっての信仰の原点でした。

 そして、イエスさまこそがこの世界とこの“わたし”を支配する、支配という言葉が物々しかったら、この世界とわたしを治める主であり、神さまであるということは、私たちにとってもやはりとても大切なところなのではないかと思います。

 今日の箇所に出てくる汚れた霊に取りつかれた男の人にしても、汚れた霊に取りつかれていることで、自分の生きたいように生きれない、神さまの方にではなく、どうしても暗闇の方に向かって歩んでしまう…、そういう苦しい状況にその人を押し込めて、その人を支配していた何らかの力に向かってイエスさまは御自分の権威でもってそれを追い出されたわけです。イエスさまには人を苦しい状況へと追いやり閉じ込める汚れた霊をも支配する力があるということです。

 キリスト者が何かお祈りをした後に最後に「主の御名によって祈ります」とか「主イエス・キリストのお名前によって祈ります」と付け加えて祈るのも、このイエスさまのもっておられる力、すべてのものごと、すべての人を、治める力に委ねる、より頼むということだと思います。それは時に、汚れた霊に支配されているかのように、自分たちの望んでいない状況や、自分自身の状態に陥ることがある私たちに対して、私たちの想像をはるかに超える力をもって、働きかけ、治め、平和を取り戻してくれるイエスさまへの信頼と希望を込めた言葉なのではないでしょうか。

 今日の箇所には、イエスさまの教えを聞いた人が、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ことに非常に驚いたということが書かれていました。この世的な見方で言えば律法学者にも権威がないわけではありません。彼らは聖書の専門家ですから、裁判の時には法に適っているかを判断する権限がありましたし、人々に聖書を教える先生でもあり、社会的に権威をもっていた人たちです。でもそれは同時に借り物の権威でもあります。律法学者だけでなく、この世界には、大統領とか、王さまとか、将軍とか、社長とか「権威」をもっている人がいて、実際にその力を行使することができるわけですけれども、本質的には彼らのもっている権威というのは自分のものではない、借り物の権威です。どんな高い地位にいる人も本質的には私たちと同じただの人間です。とてつもなく大きな権威をもっていたような人でもクーデターが起きたら一日で恐怖におびえる小さな一人のか弱い人間になってしまうように…。

イエスさまの時代パレスチナ、ユダヤを支配していたローマ皇帝は神の子として崇められていましたが、ほんの100年したらその名も崇められることもなく忘れ去られ、結局はその国自体も滅びてしまいました。

 しかし、キリスト者が信じているイエス・キリストはそのような虚しい存在ではありません。その方の御国は永遠であり、その方には尽きぬ命と愛と御力とがあり、私たちの現実を支配し、平和に治めてくださる方なのです。そのような方に自らを委ねて生きれる人こそ幸いと言えるのではないでしょうか。