2月13日礼拝説教ショートメッセージ

投稿日:2022年2月14日

「 種が実を結ぶためには 」

安達 正樹 牧師

 僕の借りている畑の隣りにおばあちゃんの畑があります。おばあちゃんの畑はとてもきれいで、そしていろんな野菜が元気よく育っています。どこかの隣の畑とはえらい違いです。同じ野菜なのになんでこんなに育ちが違うんだろうと思うのですが、その理由は明白です。おばあちゃんは僕がいつ行っても、いつも畑にいます。そして腰をかがめて野菜の成長の邪魔をする他の草を抜いたり、水をあげたりして、よく世話をしているのです。2週間に一回、時にはひと月以上も畑をほったらかしにしている自分とはそこが決定的に違うわけで、だからこそ野菜の成長と収穫に差が出ているのだと思いました。野菜は心を配り、手をかければよく育ちよく実るのです。

 先週読まれました聖書の箇所の中にはイエスさまの「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」がありました。いずれも神の国をたとえて話されたものです。

種を人が土に蒔くと、その種は夜昼寝起きしているうちに知らぬ前に成長していき、そしてついには豊かな実を結ばせる、そのように神の国は人の知らぬ間に、ひとりでに成長し、豊かな実りをあげる。

また初めは小さなからし種が大きく成長して、鳥が巣をかけるほどになるように、神の国も、初めは小さなものだが大きなものへと成長していく。

この二つのたとえ話はどちらも自ずからに豊かに成長していく神の国について伝えています。そこには人間の努力や協力は全く考慮されておらず、これらの話を通して私たちは神さまの御力に信頼をもって、すべてを任せ、委ねる姿勢を学ぶことができます。

一方、今日読まれましたたとえ話には人間の側に求められている事柄が示されているように感じます。先の二つのたとえ話で伝えていることと矛盾しているように感じてしまうのですが、僕としては正しいのはどちらか、と正解をどちらか一つに絞るのではなく、どちらも大切にしたらいいと思っています。私たちには時に神さまに委ねることが大切ですし、時には自らの努力や力を注ぐことが大切なのだと思います。あるいは神にすべてを委ねつつ自らの力を尽くすことが大切とも言えるのではないでしょうか。

このたとえ話に出てくる種は神の言葉を表しています。もっと具体的に言うならば福音書の中にいろいろ記されているイエスさまの教えと言ってもいいと思います。

イエスさまの教えが人々の内に入って行った時にある人はサタンが来てその種を奪い取ってしまう、ある人は苦しいことや辛いことが起こるとその種を枯らしてしまう。ある人たちは自分の心に湧き上がる様々な欲望に囚われてイエスさまの教えを忘れてしまう。でもある人はそのイエスさまの教えを大切に受け入れて、育て(教えに生きて)、30倍、60倍、100倍もの豊かな実りをあげるのだそうです。

これは結果論の話として話されているのでしょうか?ある人はイエスさまの教えを聞いても悪魔に邪魔されてしまう、ある人は耐えられないで教えを捨ててしまう、ある人は欲望ばかり追いかけてイエスさまの教えなんて忘れてしまう、でもある人は教えを大切に生きて、自らの血肉として成長させて豊かな成果をあげることができるんだ、という結果を伝えているのでしょうか?

そうではないと思います。イエスさまは願いをもってこのたとえ話を話されたのではないでしょうか。

サタンにつけ入られないように、自分を油断せずに守りつつ、苦しいことや辛いことがあってもなおイエスさまの教えを大切に守って生きる。そして自分の内に次から次へと湧き上がる欲望の雑草を引き抜いて引き抜いて、イエスさまの教えに日の光を当てて、水をあげて、雑草に負けなくなるまで強く成長させる、そうすれば、私達の内でイエスさまの教えが豊かに豊かに成長して、私たちが驚くほどの実りをあげることができる、だからこそあなたたちも種を育てるために努力をしてください、協力してください、そのような願いをもってイエスさまは語られたのではないでしょうか。

神さまに信頼して委ねること、自らの努力を惜しまないこと、そのどちらもが大切です。

 もし私たちが神さまにすべてを任せるだけで自ら努力をしなかったら、私たちの生活はやがて規範を失い、乱れてしまうに違いありません。

 またもし私たちが努力や忍耐だけしか大切に生きなかったら、それは自分にとっても他者にとっても息(生き)苦しい生となってしまうでしょう。

 バランスが大切なのだと思います。畑で野菜をいじってばかりいたらその野菜は病気になってしまいます。手を懸けな過ぎても育ちません。するべきことをしつつ、成長を信じて任せることが大切なのです。

 “畑仕事はいくつになってもいいもの”、隣のおばあちゃんを見ているとそんな風に思います。イエスさまの教えの種を育てることもそんな風にコツコツと楽しみながら行っていきたいものです。