聖書 マルコによる福音書4章10~12、21〜34節
「 たとえ話の秘密 」安達 正樹 牧師
「イエスは、人々の効く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた、たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(33~34節)
イエスさまは神の国の教えを語る際、人々の効く力に応じて、多くのたとえを用いて伝えておられたようです。試しに「たとえ」とは何か調べてみたら「ある事柄をわかりやすくするために、他のことを引き合いに出して伝える」ということだそうです。確かに今日の箇所にあるいくつかイエスさまのたとえ話を読んでみても、灯火を燭台の上に灯すことで明るくなり周りがはっきり見えるようになるという話や、種が私たちの知らぬ間にグングン成長していくという話など、たとえを通して私たちはその伝えようとしているものを豊かなイメージをもって理解することができます。しかし、たとえ話はあくまでもたとえ話です。それは夜空に輝く月の方向を指さす指のようなものです。大切なことは月そのものを眺めることです。
「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」
イエスさまは、野宿しながら焚火を囲んでいる時に、あるいは夜を誰かの家で過ごしている時に、弟子たちに向かって、昼間人々に語ったたとえ話の解説をしていたのでしょう。しかし、この言葉には、イエスさまが弟子たちにたとえ話の解説をしたということ以上の響きが私には感じられます。
弟子たちはイエスさまの寝食を共にし、昼も夜も共に歩み続ける中でイエスさまを理解していきました。湖の上で嵐に遭って命を失うような危険な目に会っている時も、イエスさまが人々に囲まれて寝食を忘れて過ごしている時も、イエスさまと共にいてイエスさまの姿からイエスさまの教えを学んでいったのです。興味深いことに弟子たちがイエスさまのことをもっとも理解することができたのは弟子たちがイエスさまから最も離れた時でした。自分の命惜しさにイエスさまを見捨てて逃げたその先で、暗闇の中で、弟子たちは復活のイエスさまと出会い、イエスさまのその赦しと愛と救いの極致を、朝日が昇るように悟ることができたのです。
とは言っても弟子たちの歩みはその生涯の最後までがイエスさまの学びの歩みでもあったでしょう。迫害を逃れるためにローマから離れて行くペトロの前に現れたイエスさまが「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはもう一度ローマで十字架にかかろう」と話されたという伝説は、キリスト者にとってその歩みの最後の最後までがイエスさまに従うことの学びなのだということを伝えています。
イエスさまは人々のイエスさまに近づく度合いに応じてご自身を明らかにしてくださる方です。イエスさまの教えは学問ではありません。知識でもありません。それはイエスさまと共に生きることの学びの道です。そのために私たちは自分たちの生活の中で実際にイエスさまから、イエスさまの生きた教えを示され続けていくのです。