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投稿者: nagoyashinsei一覧

2月6日礼拝ショートメッセージ

投稿日:2022年2月6日

聖書 マルコによる福音書4章10~12、21〜34節

「 たとえ話の秘密 」安達 正樹 牧師

「イエスは、人々の効く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた、たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(33~34節)

 イエスさまは神の国の教えを語る際、人々の効く力に応じて、多くのたとえを用いて伝えておられたようです。試しに「たとえ」とは何か調べてみたら「ある事柄をわかりやすくするために、他のことを引き合いに出して伝える」ということだそうです。確かに今日の箇所にあるいくつかイエスさまのたとえ話を読んでみても、灯火を燭台の上に灯すことで明るくなり周りがはっきり見えるようになるという話や、種が私たちの知らぬ間にグングン成長していくという話など、たとえを通して私たちはその伝えようとしているものを豊かなイメージをもって理解することができます。しかし、たとえ話はあくまでもたとえ話です。それは夜空に輝く月の方向を指さす指のようなものです。大切なことは月そのものを眺めることです。

「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」

 イエスさまは、野宿しながら焚火を囲んでいる時に、あるいは夜を誰かの家で過ごしている時に、弟子たちに向かって、昼間人々に語ったたとえ話の解説をしていたのでしょう。しかし、この言葉には、イエスさまが弟子たちにたとえ話の解説をしたということ以上の響きが私には感じられます。

 弟子たちはイエスさまの寝食を共にし、昼も夜も共に歩み続ける中でイエスさまを理解していきました。湖の上で嵐に遭って命を失うような危険な目に会っている時も、イエスさまが人々に囲まれて寝食を忘れて過ごしている時も、イエスさまと共にいてイエスさまの姿からイエスさまの教えを学んでいったのです。興味深いことに弟子たちがイエスさまのことをもっとも理解することができたのは弟子たちがイエスさまから最も離れた時でした。自分の命惜しさにイエスさまを見捨てて逃げたその先で、暗闇の中で、弟子たちは復活のイエスさまと出会い、イエスさまのその赦しと愛と救いの極致を、朝日が昇るように悟ることができたのです。

 とは言っても弟子たちの歩みはその生涯の最後までがイエスさまの学びの歩みでもあったでしょう。迫害を逃れるためにローマから離れて行くペトロの前に現れたイエスさまが「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはもう一度ローマで十字架にかかろう」と話されたという伝説は、キリスト者にとってその歩みの最後の最後までがイエスさまに従うことの学びなのだということを伝えています。

 イエスさまは人々のイエスさまに近づく度合いに応じてご自身を明らかにしてくださる方です。イエスさまの教えは学問ではありません。知識でもありません。それはイエスさまと共に生きることの学びの道です。そのために私たちは自分たちの生活の中で実際にイエスさまから、イエスさまの生きた教えを示され続けていくのです。

教会・会堂での礼拝休止のお知らせ

投稿日:2022年1月28日

現在、愛知県では新型コロナ感染対策「まん延防止等重点措置」(1月21日~2月13日予定)が出されています。名古屋市内の新規感染者数も日々急激に増加しています。また、教会近隣の学校でも新型コロナによる学級閉鎖等の措置が執られています。

 このような感染拡大の状況を踏まえ、臨時役員会(1月25日、電話決議)において、「まん延防止等重点措置」の期間に合わせて1月30日(日)~2月13日(日)までの期間、会堂での礼拝を休止することを決定いたしました。教会学校礼拝・こどもれいはいについても同様に休止とします。

階層での礼拝再開にあたり、あらためて役員会で対応を検討しますが、今回の予定通り2月20日(日)より会堂での礼拝が再開できる場合には、このホームページにお知らせさせていただきます。

これまでの礼拝休止期間には教会関係者・希望者に「在宅礼拝のための手引き」をお送りしていましたが、今回の措置は緊急的判断によるものであり、1月30日(日)はお休みさせていただきます。

一昨年以来、痛みのある決断が度重なりますが、また会堂で集い、共に笑顔で礼拝をささげていくための決断でもあります。どうぞご理解とご協力をお願いいたします。

 一人ひとりの心と体と霊が、その日々の歩みが、主にあって守られますように。また病の中にある方に癒しが与えらますように。

            日本キリスト教団 名古屋新生教会

                  牧師  安達 正樹

                    役  員  会

1月23日主日礼拝・説教要旨

投稿日:2022年1月22日

会堂での礼拝が休止となりました1月23日の礼拝説教になります。礼拝の一助となれば幸いです。

主日礼拝2022.1.23

「主がすべてを治める」

マルコによる福音書1章21~28節

 今日は、先週の弟子たちの召し出しの出来事の続きの箇所が読まれました。マルコによる福音書が、この弟子たちの召し出し、今日の汚れた霊に取りつかれた男の癒し、またその後に記されている、多くの病人をいやした出来事を一連に並べて記していることには理由があります。それは(難しい言葉ですが)イエスさまには権威があるということです。ここで言われている権威というのは簡単に言えば、実際に物事や人を動かす力、もっときつい言い方をすれば物事や人を実際に支配する力のことと言えるのではないかと思います。

 マルコがそのようにイエスさまのもっておられる権威、人や物事を動かす力をもっている、支配する力をもっておられるということを強調して伝えていることには意味があると思います。

 それはイエスさまこそが、またイエスさまと共におられる神さまこそが、この世界の本当の主であるということです。

 イエスさまがこの世界を本当の意味で支配しておられる主である、ということ。もっと進めて言えばイエスさまこそが“わたしの主”であるということは私たちの信仰の土台だと思います。イエスさまがそのような方だからこそ、私たちはその方に自分の人生をかけて、委ねて生きていくことができるのだと思うんです。

 ヨハネ福音書に記されている出来事ですが、イエスさまが十字架で死なれて、三日目に復活して弟子たちの前に現れた時、12弟子の内のトマス一人だけがその場にいなかったので、復活のイエスさまに会うことができませんでした。トマスという人はよく「疑い深いトマス」と呼ばれているような人物で、疑い深いというか真実を自分の目や心で実感しなければ認めることができない、そういういい意味で言えば、慎重で真摯な人だったと言われています。彼は遅れて弟子たちの集まりにやってきた時に、弟子たちが「わたしたちはイエスさまにあったんだ!イエスさまが生きてたんだ!」と言っているのを聞いて、意地のようなものを張って「わたしはイエスさまの十字架の釘跡に指を突っ込んでみなければ、わき腹にある槍で刺された穴に腕を突っ込んでみなければ、信じない!」って言い張りました。

 その次の週になるとイエスさまが再び訪れてトマスに向かって言いました。「さぁ、あなたの指をこの腕の傷跡に当てなさい。あなたの腕をこのわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その時、トマスの中の世界が完全に変わったんです。彼は「わたしの主、わたしの神よ」と言って、イエスさまこそが世界とトマス自身を支配する本当の主であり、神であることを告白したんです。イエスさまこそが“わたしの主”、イエスさまこそが“わたしの神さま”である、という体験、それがトマスにとっての信仰の原点でした。

 そして、イエスさまこそがこの世界とこの“わたし”を支配する、支配という言葉が物々しかったら、この世界とわたしを治める主であり、神さまであるということは、私たちにとってもやはりとても大切なところなのではないかと思います。

 今日の箇所に出てくる汚れた霊に取りつかれた男の人にしても、汚れた霊に取りつかれていることで、自分の生きたいように生きれない、神さまの方にではなく、どうしても暗闇の方に向かって歩んでしまう…、そういう苦しい状況にその人を押し込めて、その人を支配していた何らかの力に向かってイエスさまは御自分の権威でもってそれを追い出されたわけです。イエスさまには人を苦しい状況へと追いやり閉じ込める汚れた霊をも支配する力があるということです。

 キリスト者が何かお祈りをした後に最後に「主の御名によって祈ります」とか「主イエス・キリストのお名前によって祈ります」と付け加えて祈るのも、このイエスさまのもっておられる力、すべてのものごと、すべての人を、治める力に委ねる、より頼むということだと思います。それは時に、汚れた霊に支配されているかのように、自分たちの望んでいない状況や、自分自身の状態に陥ることがある私たちに対して、私たちの想像をはるかに超える力をもって、働きかけ、治め、平和を取り戻してくれるイエスさまへの信頼と希望を込めた言葉なのではないでしょうか。

 今日の箇所には、イエスさまの教えを聞いた人が、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ことに非常に驚いたということが書かれていました。この世的な見方で言えば律法学者にも権威がないわけではありません。彼らは聖書の専門家ですから、裁判の時には法に適っているかを判断する権限がありましたし、人々に聖書を教える先生でもあり、社会的に権威をもっていた人たちです。でもそれは同時に借り物の権威でもあります。律法学者だけでなく、この世界には、大統領とか、王さまとか、将軍とか、社長とか「権威」をもっている人がいて、実際にその力を行使することができるわけですけれども、本質的には彼らのもっている権威というのは自分のものではない、借り物の権威です。どんな高い地位にいる人も本質的には私たちと同じただの人間です。とてつもなく大きな権威をもっていたような人でもクーデターが起きたら一日で恐怖におびえる小さな一人のか弱い人間になってしまうように…。

イエスさまの時代パレスチナ、ユダヤを支配していたローマ皇帝は神の子として崇められていましたが、ほんの100年したらその名も崇められることもなく忘れ去られ、結局はその国自体も滅びてしまいました。

 しかし、キリスト者が信じているイエス・キリストはそのような虚しい存在ではありません。その方の御国は永遠であり、その方には尽きぬ命と愛と御力とがあり、私たちの現実を支配し、平和に治めてくださる方なのです。そのような方に自らを委ねて生きれる人こそ幸いと言えるのではないでしょうか。

1月23日会堂礼拝休止のお知らせ

投稿日:2022年1月22日

近隣にまで切迫している新型コロナウイルスの感染状況をふまえて、急ではありますが、1月23日(日)の会堂での主日礼拝を休止することを役員会にて決定いたしました。再開につきましてはまた再度このホームページでもお知らせをさせていただきますので、ご確認をお願いいたします。