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お知らせ一覧

会堂礼拝再開のお知らせ

投稿日:2022年3月8日

会堂礼拝再開のお知らせ

3月6日(日)に開催されました定例役員会にて次週3月13日(日)より会堂での礼拝を再開することが決定されました。依然として新規感染者が多い状況にありますので、これまでと同じように手指の消毒、マスク着用、換気、礼拝時間の短縮等の対応は行っていきます。また体調のすぐれない時は無理をせずにお休みいただきますよう、ご協力お願いいたします。

なお2月27日から在宅礼拝期間中の対応として始めたライブ配信は会堂礼拝再開に伴い休止したいと考えております。このことにつきまして何かご意見・ご要望がありましたらぜひお伝えください。

 それでは、また会堂でお会いできますこと、楽しみにしております。

                    牧師 安達 正樹

3月6日 主日礼拝ライブ配信

投稿日:2022年3月1日

3月6日主日礼拝は在宅礼拝期間中のためライブ配信を行います。ライブ配信をご覧いただく際は下記URLをクリックしてください。

https://youtu.be/KXN0kBn0vak

ひかりのこ2022.2月号外

投稿日:2022年2月26日

会堂休止期間中の教会学校礼拝・こども礼拝の聖書の内容が記されています。自宅で礼拝を守られる際、お用いください。

教会学校ページか下記URLをクリックするとご覧いただけます。

http://nagoya-shinsei.church/wp-content/uploads/2022/02/%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%932022.2%E6%9C%88-%E5%8F%B7%E5%A4%96.pdf

2月27日礼拝ライブ配信

投稿日:2022年2月23日

下記URLをクリックしていただくとライブ配信画面が表示されます。

降誕節第10主日礼拝 2022年2月27日(日)10時30分~

https://youtu.be/_9NhLerFBr8

2月20日交換講壇説教(草地大作牧師)

投稿日:2022年2月21日

2022年2月20日(日) 

愛知西地区交換講壇礼拝(降誕節第9主日)

「『罪』からの解放」マルコ福音書2:1-12

                      草地大作牧師

 

「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(2:8b-10a)

説 教

 名古屋新生教会の皆さん、おはようございます。本日、愛知西地区交換講壇礼拝の説教者として、教会に赴き、皆さんと同じ礼拝堂で主を賛美できることを楽しみにしておりましたが、残念ながら新型コロナウイルス感染症に対するまん延防止等重点措置が発出されているため、原稿を通してご挨拶することになってしまいました。また機会を設けて、皆さんとお会いできる日が来ることを期待しています。

 さて、早速ですが、今日の礼拝のために与えられたテキストは、マルコ福音書21節から12節です。私たちの所属する教団が提示する聖書日課に沿っています。多くの日本基督教団の教会で、今日はこのテキストから説教が語られていることでしょう。安達正樹牧師もこのテキストを選んでおられます。名古屋中央教会でどのような説教がなされるか、安達牧師がどの部分に注目されるのか、興味深いところです。私は今日のエピソードを示されつつ、注目すべきは「罪」という概念に対して、人はどのように向き合うべきか、ということだと思いを定めました。今日の箇所では、中風という病を患った人が登場します。男性4人が、この人を床ごとイエスの元に連れて来ました。つまりこの人は、自力で歩くことができない状態でした。今でいう脳機能障害による身体不自由の状態だったと思われます。私も教会の教師という職務について26年が過ぎます。脳卒中、脳出血など、重い脳機能障害を患われた方々と出会ってきました。一生懸命リハビリを行い、不自由を解消しようと努めておられる方々の姿も見てきました。動いていた手足が動かせなくなってしまう労苦は、ご本人にしか分からないことです。現在は様々な医療の進歩が見られ、医薬品の開発やリハビリ技術なども向上していますから、かなりの回復が見られる場合も多いのですが、イエスがこの人と出会った2000年前のことを考えれば、よほど苦しい思いをしていたであろうことは想像に難くありません。この人には、身体不自由な自分をイエスの元に連れて行ってくれる友人たちがいましたから、孤独ではありませんでした。この点、とてもホッとします。でも、この人が背負っていた重荷は、病だけではありませんでした。当時の人々の病に対する理解こそが、この人を苦しめていました。なぜ、中風に罹患してしまったのか。それはこの人が罪深かったからだ、という考え方が、当時の社会では支配的でした。病気だけでも苦しいのに、その病が罪のせいにされてしまう。もちろん、人間として生きている中では、罪の意識と無縁には歩めません。誰もが胸に手を置いて考える時、自分自身が、意識的であろうがなかろうが犯してしまった罪の重荷は大変なものです。しかも、病の罹患が罪と直結してしまうという思想が、病気の人にとってどんなに辛いことか。今、コロナ禍が続いています。とりわけ、日本というこの土壌では、病気にかかることが個人の責任問題として理解されることが多く、このように考える人の割合は、世界でも突出して多いという調査結果も発表されていました。病と罪との関係は、宗教的な価値観の希薄な私たちの住む国において、とても高いのです。このことは、コロナ禍の続く社会において病気以上に深刻な病を、人々の心に引き起こし続けています。その事実に、私は宗教家として向き合わねばならないと感じています。そしてわたしは言いたいのです。病気と罪、もっといえば、何か悪いことが起こることと個人の罪とは、無関係であると。

 今日のテキストを読む時、イエスもまた、そのような考え方が旺盛な社会で生きた一人の個人であったとも受け止められます。でも、イエスにおいては、そのような一面的な捉え方で理解できる方ではありません。イエスが示された行為によって、私は本当の解放を見る思いがします。人が罪から解放される、その御業が、中風の人を通して実現しました。イエスがその人を癒やそうとした時、「子よ、あなたの罪は赦される」といいました。罪を中風の人に押しつけた側は、心の中でイエスに敵対心を燃やしました。「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と。それであるならば、病に罹患した人を罪人と定めたのは誰なのか、と問いたくなります。それはまさに、この時イエスの言葉に心の中で真っ向から反対の弁を述べた、律法学者たちであり、その先達でした。彼ら律法学者は、旧約の時代に遡る書物において、病と罪とを結びつけました。病は罪故に人に降りかかる、と。もちろん、現代のようにウイルスや細菌など、病の元に何があるか分からず、ただ病を恐れるがあまりに、悪霊の仕業であるとか罪との関わりであるとか、様々な理由を考えた古代人たちを、一方的に責めることはできないでしょう。しかし、病と罪とを結びつけたのは、明らかに人間です。神の言葉として伝承されている旧約の様々な言葉が、当時の人々の必要を満たすために書き残されたという事実は、もはや覆い隠すことはできません。旧約の学びを深めれば深めるほど、その背景となる時代があり、当時の社会の要請があり、それらに基づいてその時代に生きた人たちが、書き残した言葉が集められたものこそが、今私たちが手にしている旧約聖書だということができます。大切な言葉もあります。今も聴くべき教えはたくさんあります。しかしその一方で、この時代においてはもはや乗り越えられねばならない思想も、たくさんあります。全体を指して、一つの思想で括ることができるほど、旧約の言葉は単純ではありません。そして、現代において乗り越えられねばならない思想の一つこそが、罪と病との関連であると私は思っています。そうやって病を背負った個人を罪の概念によって縛り付け、自由を奪い、罪人として生きていくことを強要する社会にあって、律法は悪用されていました。本来は人が人として生きる上で必要な言葉が集められていたはずの律法は、イエスの時代、完全に人を罪の意識に縛り付けるための言葉になっていました。イエスはそれを見抜いていました。そして言われるのです。「子よ、あなたの罪は赦される」と。人間が勝手に罪と病とを結びつけ、その思想を押しつけ、罪から解放されることを拒み続けている社会に向かって、イエスは病の人を解放すべく、はっきり語りました。当然、律法学者たちの反論を見越しておられたでしょうし、それを乗り越える術も持っておられました。人の子であり神の子であるとの両義性の中で、イエスはその人を癒やします。罪という概念から解放するために。

 だから、イエスに敵対する律法学者たちが、「神以外には罪を赦す権限などない」と心の中でどれだけ思ったところで、イエスは神の遣わした存在であり、神と一体の存在なのですから、この反論は意味をなしません。つまりイエスは、人間が勝手に律法として伝達し、神の言葉としての権威付けをして人を縛り付けていた、罪と病との関係を完全に断ち切りました。中風の人が起き上がり、自分が寝かされてきた床を担いで、4人の友人たちと共に家に帰っていく奇跡を起こすことによって、神の御業を示しました。この時、神の御心として、罪から人は解放されていることが、完全に示されたのです。そしてこの奇跡を心から信じる私たちもまた、今この時代において、既に罪の概念から解放されているのです。少々個人的なことになりますが、先週の木曜日、217日は私の受洗記念日でした。31年前、17歳の高校2年の終わりに、私は洗礼を受けました。それ以後、様々な紆余曲折を経て、現在牧師として歩んでいます。幸いなことに、何人かの方々に洗礼を授ける恵みにも与りました。洗礼式の式文には、洗礼と罪の許しということが結びつけられています。ずっと、特に違和感を覚えずその式文通りに洗礼式を執行してきました。しかしここ数年、まさに今日語っている説教とも深く関わるのですが、洗礼と罪の許しということについて、引っかかりを覚えるようになりました。イエスが、人が勝手に押しつけた罪の概念から私たちを解放するために、病人を癒やし、福音を宣べ伝えられたことを覚える時、洗礼と罪の許しが結びつけられていることに対して、それは違うと思い至ったのです。そして今では、自分のオリジナルに改めた式文を用い、罪の許しと洗礼ということを切り離しています。洗礼が罪の許しのためだという思想は、やはり旧約に端を発しています。「人はそもそも罪深い」という、原罪という概念に基づくからです。私は今、人は生まれながらにして神の恵みの中に生かされており、その救いはすべての人に普遍のものであるとの確信を、強く持っています。そして、「神がすべての人を救いの中においてくださっていて、その中に私自身が含まれている」と気づくことができた人が洗礼へと導かれ、クリスチャンとなるのだ、と考えるようになりました。だから、式文自体の流れを、そのように作り直しました。今、洗礼式を執行するにおいて、とてもすっきりした気持ちで司式することができるようになりました。そうなのです。私たちは、既に生まれながらにして罪から解放されているのです。少なくとも、人間が押しつけた罪の概念からは、神により、イエスにより、私たちは解放されているのです。だから、罪を恐れることはありません。イエスは今日のエピソードで、はっきりそのことを示されました。世界で最初に書かれたマルコ福音書の、第2章の冒頭において、既にそのことが示されています。つまり、イエスが生涯を通して私たちに示された救いは、まず罪の縛りから解放されることによって始まるのです。そこから、私たちの信仰はスタートして良いのです。この喜びの事実を、私たちは世の人々に、遠慮なくはっきりと、伝えることができます。出会う人すべてが、神によって罪の概念から解放されている。病人はその病の労苦を背負うだけで、十分なのです。癒やしを待つ時、「罪を赦してください」と願うことはないのです。なぜなら、すべての人が赦されているからです。この事実を、私たち自身がしっかり胸に刻み、日常において出会う人たちにも伝えることができますようにと願っています。お祈りいたします。

祈 祷

 神様。今日は愛知西地区の交換講壇礼拝として、名古屋新生教会の皆さんにメッセージを届ける役割を与えられましたこと、感謝いたします。直接語ることはできなくとも、どうぞ神様、このメッセージを一人一人の心に届けてください。そして、コロナ禍が早く過ぎ去り、また皆さんと直接お目にかかって、メッセージを届ける機会をお与えください。今日から始まる皆さんの新しい1週間も、あなたの御守りと祝福が豊かにありますように。この祈りを、イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

ひかりのこ2月号

投稿日:2022年2月15日

ひかりのこ2月号です。会堂での礼拝休止期間中の聖書箇所も記載されております。ご自宅で礼拝を守られる際にご利用ください。

http://nagoya-shinsei.church/wp-content/uploads/2022/02/%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%932022.2%E6%9C%88%E5%8F%B7.pdf

会堂での礼拝休止期間延長のお知らせ

投稿日:2022年2月14日

2月13日に開催された役員会にて会堂での礼拝休止期間を3月6日まで延期することが決定いたしました。近隣での感染状況が悪化していること、また高齢者、子供たちへのリスクを考えた上での苦渋の決断です。

会堂での礼拝が休止している期間においても主にあって教会の仲間が共につながりあっていることを信じつつ、祈りをもって過ごしていきたいと思います。

感染状況が落ち着き3月13日には再び会堂で皆様とご一緒に礼拝をささげられることを願っております。

2月13日礼拝説教ショートメッセージ

投稿日:2022年2月14日

「 種が実を結ぶためには 」

安達 正樹 牧師

 僕の借りている畑の隣りにおばあちゃんの畑があります。おばあちゃんの畑はとてもきれいで、そしていろんな野菜が元気よく育っています。どこかの隣の畑とはえらい違いです。同じ野菜なのになんでこんなに育ちが違うんだろうと思うのですが、その理由は明白です。おばあちゃんは僕がいつ行っても、いつも畑にいます。そして腰をかがめて野菜の成長の邪魔をする他の草を抜いたり、水をあげたりして、よく世話をしているのです。2週間に一回、時にはひと月以上も畑をほったらかしにしている自分とはそこが決定的に違うわけで、だからこそ野菜の成長と収穫に差が出ているのだと思いました。野菜は心を配り、手をかければよく育ちよく実るのです。

 先週読まれました聖書の箇所の中にはイエスさまの「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」がありました。いずれも神の国をたとえて話されたものです。

種を人が土に蒔くと、その種は夜昼寝起きしているうちに知らぬ前に成長していき、そしてついには豊かな実を結ばせる、そのように神の国は人の知らぬ間に、ひとりでに成長し、豊かな実りをあげる。

また初めは小さなからし種が大きく成長して、鳥が巣をかけるほどになるように、神の国も、初めは小さなものだが大きなものへと成長していく。

この二つのたとえ話はどちらも自ずからに豊かに成長していく神の国について伝えています。そこには人間の努力や協力は全く考慮されておらず、これらの話を通して私たちは神さまの御力に信頼をもって、すべてを任せ、委ねる姿勢を学ぶことができます。

一方、今日読まれましたたとえ話には人間の側に求められている事柄が示されているように感じます。先の二つのたとえ話で伝えていることと矛盾しているように感じてしまうのですが、僕としては正しいのはどちらか、と正解をどちらか一つに絞るのではなく、どちらも大切にしたらいいと思っています。私たちには時に神さまに委ねることが大切ですし、時には自らの努力や力を注ぐことが大切なのだと思います。あるいは神にすべてを委ねつつ自らの力を尽くすことが大切とも言えるのではないでしょうか。

このたとえ話に出てくる種は神の言葉を表しています。もっと具体的に言うならば福音書の中にいろいろ記されているイエスさまの教えと言ってもいいと思います。

イエスさまの教えが人々の内に入って行った時にある人はサタンが来てその種を奪い取ってしまう、ある人は苦しいことや辛いことが起こるとその種を枯らしてしまう。ある人たちは自分の心に湧き上がる様々な欲望に囚われてイエスさまの教えを忘れてしまう。でもある人はそのイエスさまの教えを大切に受け入れて、育て(教えに生きて)、30倍、60倍、100倍もの豊かな実りをあげるのだそうです。

これは結果論の話として話されているのでしょうか?ある人はイエスさまの教えを聞いても悪魔に邪魔されてしまう、ある人は耐えられないで教えを捨ててしまう、ある人は欲望ばかり追いかけてイエスさまの教えなんて忘れてしまう、でもある人は教えを大切に生きて、自らの血肉として成長させて豊かな成果をあげることができるんだ、という結果を伝えているのでしょうか?

そうではないと思います。イエスさまは願いをもってこのたとえ話を話されたのではないでしょうか。

サタンにつけ入られないように、自分を油断せずに守りつつ、苦しいことや辛いことがあってもなおイエスさまの教えを大切に守って生きる。そして自分の内に次から次へと湧き上がる欲望の雑草を引き抜いて引き抜いて、イエスさまの教えに日の光を当てて、水をあげて、雑草に負けなくなるまで強く成長させる、そうすれば、私達の内でイエスさまの教えが豊かに豊かに成長して、私たちが驚くほどの実りをあげることができる、だからこそあなたたちも種を育てるために努力をしてください、協力してください、そのような願いをもってイエスさまは語られたのではないでしょうか。

神さまに信頼して委ねること、自らの努力を惜しまないこと、そのどちらもが大切です。

 もし私たちが神さまにすべてを任せるだけで自ら努力をしなかったら、私たちの生活はやがて規範を失い、乱れてしまうに違いありません。

 またもし私たちが努力や忍耐だけしか大切に生きなかったら、それは自分にとっても他者にとっても息(生き)苦しい生となってしまうでしょう。

 バランスが大切なのだと思います。畑で野菜をいじってばかりいたらその野菜は病気になってしまいます。手を懸けな過ぎても育ちません。するべきことをしつつ、成長を信じて任せることが大切なのです。

 “畑仕事はいくつになってもいいもの”、隣のおばあちゃんを見ているとそんな風に思います。イエスさまの教えの種を育てることもそんな風にコツコツと楽しみながら行っていきたいものです。

2月6日礼拝ショートメッセージ

投稿日:2022年2月6日

聖書 マルコによる福音書4章10~12、21〜34節

「 たとえ話の秘密 」安達 正樹 牧師

「イエスは、人々の効く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた、たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(33~34節)

 イエスさまは神の国の教えを語る際、人々の効く力に応じて、多くのたとえを用いて伝えておられたようです。試しに「たとえ」とは何か調べてみたら「ある事柄をわかりやすくするために、他のことを引き合いに出して伝える」ということだそうです。確かに今日の箇所にあるいくつかイエスさまのたとえ話を読んでみても、灯火を燭台の上に灯すことで明るくなり周りがはっきり見えるようになるという話や、種が私たちの知らぬ間にグングン成長していくという話など、たとえを通して私たちはその伝えようとしているものを豊かなイメージをもって理解することができます。しかし、たとえ話はあくまでもたとえ話です。それは夜空に輝く月の方向を指さす指のようなものです。大切なことは月そのものを眺めることです。

「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」

 イエスさまは、野宿しながら焚火を囲んでいる時に、あるいは夜を誰かの家で過ごしている時に、弟子たちに向かって、昼間人々に語ったたとえ話の解説をしていたのでしょう。しかし、この言葉には、イエスさまが弟子たちにたとえ話の解説をしたということ以上の響きが私には感じられます。

 弟子たちはイエスさまの寝食を共にし、昼も夜も共に歩み続ける中でイエスさまを理解していきました。湖の上で嵐に遭って命を失うような危険な目に会っている時も、イエスさまが人々に囲まれて寝食を忘れて過ごしている時も、イエスさまと共にいてイエスさまの姿からイエスさまの教えを学んでいったのです。興味深いことに弟子たちがイエスさまのことをもっとも理解することができたのは弟子たちがイエスさまから最も離れた時でした。自分の命惜しさにイエスさまを見捨てて逃げたその先で、暗闇の中で、弟子たちは復活のイエスさまと出会い、イエスさまのその赦しと愛と救いの極致を、朝日が昇るように悟ることができたのです。

 とは言っても弟子たちの歩みはその生涯の最後までがイエスさまの学びの歩みでもあったでしょう。迫害を逃れるためにローマから離れて行くペトロの前に現れたイエスさまが「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはもう一度ローマで十字架にかかろう」と話されたという伝説は、キリスト者にとってその歩みの最後の最後までがイエスさまに従うことの学びなのだということを伝えています。

 イエスさまは人々のイエスさまに近づく度合いに応じてご自身を明らかにしてくださる方です。イエスさまの教えは学問ではありません。知識でもありません。それはイエスさまと共に生きることの学びの道です。そのために私たちは自分たちの生活の中で実際にイエスさまから、イエスさまの生きた教えを示され続けていくのです。